それだけで十分






あの、すみません


そんな呼びかけを受け、振り返るより先にガシリと腕を掴まれた。
掴んだ主を見上げれば(そう、見上げる程の高さだ畜生)、
ハルヒのイエスマンこと古泉がやけに思いつめた顔で立っていた。

掴まれた腕のせいで前に進む事が出来ない。
かといって、それを振りほどいてまで行く程、急いでいる訳でもなかった。


だから待った。
古泉の口が再び動くのを。







廊下を曲がった所であの人の後ろ姿を見かけた。
僕に背中を向けて、だから当然気付く事もなく、颯爽と歩く姿。
ぼんやりしている間に随分と小さくなったその背中を見ていたら、
急に不安が押し寄せてきた。

慌ててその背中を追いかける。
足のリーチからいけば、追いつく事なんて簡単だった(怒られるから言わないけれど)


彼に、用事など何もない。

僕の目的地は今通り過ぎたばかりだ。



やっと捕まえた彼は、怪訝そうに僕を見上げた。
その目は明らかに何の用だと言っている。

だけど、

さみしかったのです。

などと言おうものなら、この目が途端に冷たくなりドン引きされるのは分かりきっていた。
(いや、もしかしたら彼なりの優しさで受け止めてくれるかもしれないが)



「おい」



何を言おうかとぐるぐるしていると、少々不機嫌そうな声がした。
慌てたせいで多少上ずった声で返事をすると、離せ、とまた短い声が返ってきた。
一瞬、何の事か分からず呆けたが、彼の無愛想な視線を追うと
そこにはしっかりと彼の腕を掴んだままの僕の右手があった。

しかし、その手をすんなり離すのは躊躇われた。







人を呼び止めておいて、何も言ってこないばかりか
離す様に要請したその手も離す気はないらしい。

思わず出たため息に掴んだ腕がピクリと反応するのが分かった。


「何がしたいんだ、お前」
「いえ…その」

しどろもどろにやっと説明を始めたその主張によると、

俺を見かけたから、だそうだ。

ならばなぜさっさとそう言わないのかと、またため息を吐いてしまう。
不幸になったらどうしてくれる。



「すみません…」
まるで、叱られた子供の様にでかい体を縮こませる姿に、怒る気もうせる。


「分かった。分かったから、とりあえずその手を離せ」

「…イヤ、です。 … と、言ったら貴方どうしますか」


は?と見上げると何故か泣きそうな顔をしている古泉と目があった。
何だか、ふざけるなと怒る事も、無理矢理解く事も出来ない気がした。





今朝起きてから今の今まで平和だった。
平和というか、日常だった。
平凡な、ありふれた一日だった筈だ。

なのに、こんな、何でもない日に。

何故こんな運命の岐路に立たされている気になるのか。


この掴まれた腕と、これから発する言葉。

たったそれだけで、明日からのコイツの運命が決まる。


一般市民な俺が背負うには、重すぎる課題だ。

そんな事は気のせいだろうと言い聞かせつつも、
どこかで間違えるなと必死に考える俺もいた。

さて…何と答えようか?







僕は、一体どんな顔をしていたのだろうか。

暫く考え込む様に黙っていた彼がふ、と困った様に笑った。
僕に向かってそんな顔を見せるのは珍しかった。

「…じゃあ、一緒にクラスまで来るか?」
このままで。
「えっ」
まさか、彼がそんな事を言うなんて思ってもみなかった。
驚きのあまり口をパクパクさせていると、また彼が笑った。
今度は安心したかの様に。

「ジョーダンだよ」
そう言って目を逸らす彼の手を引き寄せて抱きしめたい衝動に駆られた。
しかし、そんな事はしてはならない。
無意識に、掴んでいる腕に力が入った。

「…ッて!」
「あ!あ…スミマセン…」
それでも、手を離す事が出来なくて力だけ意識して緩める。
離す気がまだないのを感知した彼が三度目となるため息をついた。
そんなにため息ばかりだと不幸になりますよ。



「あのなあ」
「はい?」
「お前の手、汗かいてるな。気持ち悪い」
「えぇ!?すすす、すみませんっ!!」
さすがに慌てて離してしまった手に彼がニヤリと笑った。
やっと離したな、と。
「え?あれっ!?嘘ですか!?」
「阿呆、嘘じゃねえよ。本当ベタっとしてたぜ」
あ〜やれやれ、と腕を振りながら僕からゆっくりと離れていく。

数歩進んだ所で彼が振り返った。

「あのな、明日から冬服だろ?そしたらいつでもいいぞ」

じゃあな、と離れていく彼。
先ほどと同じ後姿なのに、なんだかもう不安はなかった。






明日からキョンにベタベタするといい。そんで怒られた時に「あなたがいいって言ったんですよ」って笑うといい。